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おのころ島神社が近くにありますね。
ご視聴ありがとうございます。淡路島では、おのころ島神社と大和大国魂神社も参拝したい神社ですね。
元々、(鼻子山)大和大國魂神社が一千数百有余年に亘りイザナミ大神の宮。と深く信仰されていた。時宗の開祖、一遍上人がその晩年に大和大國魂神社に至り土地の人からイザナミ大神の宮だ!と聞いて深い祈りを捧げ、粗末な庵を結んで自らの踊り念仏(盆踊りのルーツの一つ?)を布教なさったと伝承されます。また古来、桜の名所で桜の宮。とも呼ばれていました。元来の参道や本殿は西向き(参拝者は東(朝日)を向く)先山等から刺し登る旭日をこの高台(大和大國魂神社)から拝する霊畤(祭祀場)だったかと。この丸みを帯びた秀麗なお山(○○富士。)~刺し登る旭日を特に尊んだ御先祖さま(出雲族)は太陽(大日)の女神。大日霎貴尊(後、天照大神)と崇拝し良く拝んだ。この習いは出雲族がルーツの四千年以前のインド時代からの習い。特に奈良盆地、大和の三輪山で発展した出雲族の女神、幸姫命(イザナミ)の神格の一部分が件の太陽の女神(大日霎貴尊→天照大神)信仰。淡路島の出雲神族の姫巫女さまが刺し登る旭日に所謂、銅鐸を打ち鳴らして祭祀なさっていたのでは?おのころ島神社は明治に創建された神社。理由は、大和大國魂神社の祭神を社名通りに復すにあたり、明治革命政府が金科玉条に据えた古事記(官制偽書)の皇室の大御祖神であるイザナミを神殺しする訳にも行かないため、大和大國魂神社の参道、社殿を南に変更してその前段に新たに社地を定めて神社を創建してそちらに国うみ神話(渡来人(徐福(イザナギ)やその子孫)による侵略~先住民の鎮圧平定)のイザナギ、イザナミを主祭神とした。当初は平地に有った(明治半ばの古写真)のが大正期の全景写真では今の様な高台に隆起?おのころ島神社を拝むと自ずから後背の大和大國魂神社を拝む形となります。律令が機能した時代、国からの扱いは伊弉諾神社より大和大國魂神社の方が常に手厚く丁重だった。
2年前に伊弉諾神宮へ訪問しました。観光バスも止まるほど有名な場所なのに、日本国の恩人である樋口季一郎さんの銅像が建立されている事実とその理由を誰も知りませんでした。パンフレットの類もなく悔しくて悲しくて涙しました。
ご視聴ありがとうございます。樋口季一郎さんの銅像は動画におさめていましたが、知りませんでした。樋口さんについて知る機会を頂いて有難うございます。まだまだ調べが未熟で申し訳ないです・・・。
@@banjimashite 丁寧なご返事ありがとうございます。国民の9割が知らない日本国の恩人です。ヒトラーの片棒を担ぐを良しとせず二万人のユダヤ人の救出を行い、キスカ島では五千人の日本軍の無血撤退を成功させました。日ソ不可侵条約を破り襲ってきたソ連の侵略を天皇陛下の命に背くようなかたちで止めた占守島の戦いは最後の奇跡です。戦後は恩給が出ずに清貧な生活を余儀なくされていましたが、インベイダ―ゲームで有名なダイソー役員への誘いも断り、友人、部下たちの冥福を願い四方拝を続ける日々だったそうです。恥ずかしながら私は70歳で会社退職後にこの史実を知りました。
伊弉諾尊の老後生活の跡。若い時のイザナミを思いながら、過ごして、ここで、お隠れに。いまの伊弉諾神宮は神さんの陵ですね。実際にこの周りには前方後円墳の跡があるようです。髪の毛…(笑)
ご視聴有難うございます。淡路といえば国生み。神話好きにはたまりませんでした。近江の多賀大社も気になりますね。古墳の跡があるのですか。気づきませんでした・・・残念。参拝してから4か月ほど経ちましたが、髪の毛に変化が出てきました。知らんけど笑☺
@@banjimashite そもそも現在地に円形古墳が造営されてから一千数百有余年にわたり御神体として崇拝を受けていました。古墳を破壊して今の姿に明治革命政府が作り替えました。
本当に残念な話ですね。明治政府の神仏分離でも、選ばれなかった方の建造物や宝は破壊され持ちだされ売り捌かれたと聞きます。長い間培ったものが、簡単に価値のないものになるのは酷い話です。
@@banjimashite そもそも古墳(幽宮)で石室石棺が有りました。今はその石棺の周りに人口基壇を巡らしてその上に本殿を造営して蓋をした形。それで、件の石棺には実体(二体分のご遺体)がいらっしゃいます
淡路いいとこ一度はおいで。
淡路島は仕事でもときどき伺います。二宮の大和大国魂神社も参拝したいですね☺
おのころ島神社が近くにありますね。
ご視聴ありがとうございます。淡路島では、おのころ島神社と大和大国魂神社も参拝したい神社ですね。
元々、
(鼻子山)
大和大國魂神社
が
一千数百有余年に亘り
イザナミ大神の宮。
と深く信仰されていた。
時宗の開祖、一遍上人が
その晩年に大和大國魂神社に至り
土地の人からイザナミ大神の宮だ!と聞いて
深い祈りを捧げ、
粗末な庵を結んで
自らの踊り念仏(盆踊りのルーツの一つ?)
を布教なさったと伝承されます。
また古来、桜の名所で桜の宮。とも呼ばれていました。
元来の参道や本殿は西向き
(参拝者は東(朝日)を向く)
先山等から刺し登る旭日を
この高台(大和大國魂神社)から拝する
霊畤(祭祀場)だったかと。
この丸みを帯びた秀麗なお山(○○富士。)~刺し登る旭日を特に尊んだ御先祖さま(出雲族)は
太陽(大日)の女神。
大日霎貴尊(後、天照大神)と崇拝し良く拝んだ。
この習いは出雲族がルーツの四千年以前のインド時代からの習い。
特に奈良盆地、
大和の三輪山で発展した
出雲族の女神、
幸姫命(イザナミ)の神格の一部分が
件の太陽の女神
(大日霎貴尊
→天照大神)信仰。
淡路島の出雲神族の姫巫女さまが
刺し登る旭日に
所謂、銅鐸を打ち鳴らして祭祀なさっていたのでは?
おのころ島神社は
明治に創建された神社。
理由は、
大和大國魂神社の祭神を社名通りに復すにあたり、
明治革命政府が
金科玉条に据えた
古事記(官制偽書)の
皇室の大御祖神であるイザナミを神殺しする訳にも行かないため、
大和大國魂神社の参道、社殿を南に変更して
その前段に新たに社地を定めて
神社を創建して
そちらに
国うみ神話
(渡来人(徐福(イザナギ)やその子孫)による侵略~先住民の鎮圧平定)
のイザナギ、イザナミを主祭神とした。
当初は平地に有った(明治半ばの古写真)のが
大正期の全景写真では今の様な高台に隆起?
おのころ島神社を拝むと自ずから
後背の大和大國魂神社を拝む形となります。
律令が機能した時代、
国からの扱いは
伊弉諾神社より
大和大國魂神社の方が常に手厚く丁重だった。
2年前に伊弉諾神宮へ訪問しました。観光バスも止まるほど有名な場所なのに、日本国の恩人である樋口季一郎さんの銅像が建立されている事実とその理由を誰も知りませんでした。パンフレットの類もなく悔しくて悲しくて涙しました。
ご視聴ありがとうございます。樋口季一郎さんの銅像は動画におさめていましたが、知りませんでした。樋口さんについて知る機会を頂いて有難うございます。まだまだ調べが未熟で申し訳ないです・・・。
@@banjimashite 丁寧なご返事ありがとうございます。国民の9割が知らない日本国の恩人です。ヒトラーの片棒を担ぐを良しとせず二万人のユダヤ人の救出を行い、キスカ島では五千人の日本軍の無血撤退を成功させました。日ソ不可侵条約を破り襲ってきたソ連の侵略を天皇陛下の命に背くようなかたちで止めた占守島の戦いは最後の奇跡です。戦後は恩給が出ずに清貧な生活を余儀なくされていましたが、インベイダ―ゲームで有名なダイソー役員への誘いも断り、友人、部下たちの冥福を願い四方拝を続ける日々だったそうです。恥ずかしながら私は70歳で会社退職後にこの史実を知りました。
伊弉諾尊の老後生活の跡。
若い時のイザナミを思いながら、過ごして、ここで、お隠れに。
いまの伊弉諾神宮は神さんの陵ですね。
実際にこの周りには前方後円墳の跡があるようです。
髪の毛…(笑)
ご視聴有難うございます。
淡路といえば国生み。神話好きにはたまりませんでした。近江の多賀大社も気になりますね。古墳の跡があるのですか。気づきませんでした・・・残念。
参拝してから4か月ほど経ちましたが、髪の毛に変化が出てきました。知らんけど笑☺
@@banjimashite
そもそも現在地に円形古墳が造営されて
から一千数百有余年にわたり御神体として崇拝を受けていました。
古墳を破壊して今の姿に明治革命政府が作り替えました。
本当に残念な話ですね。
明治政府の神仏分離でも、選ばれなかった方の建造物や宝は破壊され持ちだされ売り捌かれたと聞きます。長い間培ったものが、簡単に価値のないものになるのは酷い話です。
@@banjimashite
そもそも古墳(幽宮)で
石室石棺が有りました。
今はその石棺の周りに人口基壇を巡らして
その上に本殿を造営して蓋をした形。
それで、件の石棺には実体(二体分のご遺体)がいらっしゃいます
淡路いいとこ一度はおいで。
淡路島は仕事でもときどき伺います。二宮の大和大国魂神社も参拝したいですね☺